2009年11月19日木曜日

古代の神殿跡 西本6号遺跡 解除(はらえ) 金銅製杏葉

(阿岐のまほろばVol.3 、Vol।5より画像転載、記事転載及び、参考、(財)東広島市教育文化振興事業団、文化財センター報から)
東広島市高屋町大畠から杵原にかけて団地の造成工事に伴い、大規模な発掘が行われた。
1994年3月12日遺跡見学会が雨のため、広島市の東広島市文化センターで発表され、その資料によると。昭和50年度に1号遺跡と2号遺跡が平成4年度、5年度に6号遺跡(団地造成による)が行われた。
発見されたものは、白鳳時代と、弥生時代のもの、この地で、竪穴住居、掘立柱の建物跡、弥生時代の貯蔵穴、墳墓など多くのものが見つかった。特に白鳳時代の掘立柱建物跡と、柱穴列、溝状遺構。
 写真の中に石灰で白く書かれたものが、白鳳のものです。
 建物は、板葺きであったり、茅葺きの大型の建物であったようです。
 弥生のものは、中期後半~後期前半(紀元前1世紀~1世紀頃)の約100年間のもののようです。白鳳のものは、天武・持統朝期(7世紀後半)の25~30年間のもので、立替もなく比較的短期のもののようです。 四面庇建物を囲むようにコの字方の配置の特徴は、地方官衙の中心的な政庁特有の配置に類似しています。地方官衙となれば、国衙、郡衙、評、郷、里の役所跡や、正倉、駅家(うまや)、館などがあります。
 年代的には、条里制(715年)以前のもので、国衙、郡衙、駅家とは考えられず、評から郡への移行(大宝律令-701年)の問題も絡んでくるようです。 規模の小さいものは倉庫、大きなものは、神殿の可能性があります。
 神社建物の神明造り(伊勢神宮正殿に類似)、全体的に見れば、この地域を支配していた豪族、(国造-のちの郡司-郡の長官)の居宅ではないかと考えられる。今後の研究が必要。このように検討がいろいろされるのは、他にはない、珍しい遺跡なのだそうです。神戸市の松野遺跡の祭儀用建物遺跡によく類似しているようです。
 また西本遺跡の中から、多量の器が発見されています。 その中には、円面硯(えんめんけん)と呼ばれる、役所で使われる、硯(すずり)が発見されています。文字が書ける人物がいたことが解かります。
 そして、高杯(たかつき)と呼ばれる、須恵器の裏に、文字が書かれた、墨書土器(ぼくしょどき)が発見され、「解 」ともう一字は不明。高杯は、食べ物を盛り付けて、神様に奉げるためのもので、「解」の字が書かれたものを、日本書紀から探してみると、「大解除(おおはらえ)」という言葉が見つかります。 ※図は、遺跡見学会資料のもの転載。
 円面硯(えんめんけん)、高杯(たかつき)、杯(つき)、金銅製毛彫馬具(杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる、馬具の飾り)
 日本書紀によると、1.天武天皇5(676)年8月辛亥(16日)条(676)の記述に「四方に大解除(おおはらえ)を行い、国ごとに祓物を出さしめ」とあります。 〔詔曰。四方為大解除。用物則国別国造輸祓柱。馬一匹。布一常。以外郡司各刀一口。鹿皮一張。钁一口。刀子一口。鎌一口。矢一具。稲一束。且毎戸麻一条。〕
2.天武天皇10年7月丁酉(30日)条(681)〔令天下悉大解除。当此時。国造等各出祓柱奴婢一口而解除焉。〕
3.朱鳥元年7月辛丑(3日)条(686)〔詔諸国大解除。〕
 これらの記述から「大宝令」以降に此の制度が定例化したとされています。
そもそも。大解除(大祓・おおはらえ)とは、〔日常生活の中で知らず知らずのうちに犯している、自分自身の罪穢れを祓い清め、身も心も清く明るく立ち返り、再び健康に明るく正しい生活を取戻すための行事で、毎年6月30日と12月晦日に、宮中を始め全国の神社にて斎行される神事です。
 大祓の名称は、仲哀天皇崩御の時「国の大奴佐(おおぬさ)を取り、種々の罪を求めて国の大祓を行い、神の教えを請われた。」と古事記に見えます。〕
***神奈川県神道青年会・神奈川県神社庁のWebサイトより抜粋

 こういった、解除と書かれた墨書土器が出土することは、全国的にも初めてであり、この建物跡が神社の原型であることが良く解る大切な遺跡です。
 古代の祭祀遺跡と律令国家との関わりと発展について、これからの研究が期待されます。

 4世紀の終わりごろに乗馬の風習とともに伝わった馬具、5世紀になると国産の馬具も製作され全国に広がる。6~7世紀には、各地の豪族の威厳を高めるものとして発達し、金銅製の豪華なものも造られるようになりました。発見された、金銅製の毛彫馬具は、杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる、飾りの金具です。全国的にも出土例は少なく、その最西端地として注目されています。 2008年12月に、東広島市の広報誌に、紙上博物館と題して、発見された実物と、復元された毛彫馬具の写真が掲載されました。
図は、馬具の飾りを判りやすく図で説明したものです。

馬の胸を飾る金具は、歩くたびに、キラキラと離れていた人々にも美しく、そして所有する豪族の威厳を強く感じたことでしょう。
出土分布の状況から、律令政府が侵略によって従属していった豪族たちに与えられた品物のひとつであったことも考えられています。


出土の分布図、北は 青森の鹿島沢古墳群から出土していて、中部、関東、東北地方に広く分布しているもので、西本遺跡はぽつんと離れた最西端にあるものです。どうしてもたらされたかは、わかりませんが、東国からの強制移住民に関係した遺物かもしれないとも想像されます。
1.遺跡の現状について
2.大宝令
3.大宝律令

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