2009年11月29日日曜日

平成21年度11月例会「市内隣地研修」西高屋周辺の史跡・文化財を見て歩く

平成21年度11月例会「市内隣地研修」西高屋周辺の史跡・文化財を見て歩く
東広島市高屋町 西品寺(さいほんじ) 門平成21年11月28日(土)8:00に東広島市役所集合、8:30に高屋公民館集合、出発。約40名余りの会員が集合し、西高屋駅北の浄土真宗西品寺(さいほんじ)を徒歩で目指す。ここには、門横に、廃長楽寺跡より移した、行賢(ぎょうけん)の石造りの水槽がある。
広島県指定重要文化財。西品寺は、平賀弘章の孫、鶴丸が出家し周了とし。応永20年(1413)開基と伝えられる。永正3年(1515)中島字岡之寺に移り、慶長6年(1601)現在の地、平之前に移る。慶長11(1606)に西本坊を改め、真養山西品寺と号するようになった。
広島県重要文化財、行賢遺品 行賢水槽 西品寺 境内の水槽は、稲木字栗本の廃長楽寺跡より移され、長さ120cm、幅約65cm、高さ78cmで底に水抜き穴がある。上面縁に、元亨2年任戌(1322)7月23日行賢の刻銘がある。県重要文化財に指定されている。境内には、白市の豪商、木原保満の寄進した石塔がある。  

【僧行賢遺品 不動明王立像、多聞天立像】
続いて、向かったのは、稲木字栗本の廃長楽寺跡で、行賢遺品といわれている石造仏で、右が不動明王立像、左が多聞天立像です。
行賢遺品、広島県重要文化財、不動明王立像、多聞天立像写真の真ん中の地蔵菩薩は、お堂を近年建てられたときに、造られたらしい。
 地元の郷土史研究会会員によると、お堂が近年建てられるまで、この2体の石仏は、この位置に野ざらしのまま、放置されていたらしい。像の特徴として、行賢の時代のものに間違いは無いようだ。
 写真の解説板をクリックしていただければ、詳しく判るので、ご覧頂きたい。
遠景を見ていただくと判ると思うが、左の大きな建物は、神社の拝殿で右隣の漆喰塗りの建物が行賢石仏2体を安置しているお堂です。右の斜面樹木のむこうに、数基の五輪塔が並んでいる。これらは、お堂のあるところの背面の山の中にバラバラに建っていたものを集めたものです。
行賢遺品石仏 解説板石造不動明王は、船形光背(ふながたこうはい)に陽刻彩色されています。
元享二年(1322)の銘があり。多聞天(たもんてん)には銘はありませんが同時期の作と考えられています。
 僧行賢は、鎌倉末期から南北朝期にかけて、東広島市高屋町稲木・中島地区を中心に活動しており、独自の作風から行者系彫刻の先駆的な作風として注目をされている、他に稲木の廃西福寺跡には、板碑や供養塔などがありまとめて、県の重要文化財に指定されています。
行賢遺品 石仏 お堂前お堂の中に安置されている三体の石仏のうち正面の地蔵さんは、もともとこの地にあったものでは無い。おそらくお堂を建てたときに安置されたものでしょう。 近年までとても荒れた状態でしたが、地元の有志がお堂を建て、五輪塔も集め、整備され県重要文化財の2躯の石仏も大切に保管されることとなりました。

向かって右側が不動明王立像、左が多聞天立像、とても可愛らしい小柄の不動明王立像と多聞天、しかしずっと見つめておりますと行賢はなぜ、高屋の地にこいった寺を建立したり、石造の水槽や、石造仏をつくったりしていったのか、いろいろな疑問が湧き出てきます。行賢はなにを考えていたのであろうか?
【西本6号遺跡】次に向かったのは、アスカパークという団地に伴い発掘が行われた、西本6号遺跡といわれる古代祭祀跡である。発掘当時、掘立柱跡や、四角の囲い跡が出てきて、ただ事ではないぞと全国の研究者が見学にこられたという。市では保存するかどうか考えたようだが、文化庁は、残すようにと、出てきた遺品も貴重で、史跡指定級の重要な出土品であるようだ。現在は、東広島市の史跡、重要文化財に指定されている。詳しい内容はすでにblogにしてあるのでご覧ください。
1、遺品と発掘写真[解除墨書土器] [金銅製毛彫馬具飾 杏葉(ぎょうよう)] [円面硯(えんめんけん]     2、現在の様子 整備された、史跡公園
現在は、史跡公園となり団地の子供たちが元気よく公園内で遊んでいました。
【杉森神社】
次にアスカパークの北斜面を杵原方向に下る。県道をはさんで対面には、 杉森神社が建っている。処は杵原字大通寺。 保延6年(1140)、今井兼久の祖先吉房が祠を建て宇佐八幡宮の分霊を勧請して拝崇敬していたところ、天養元年(1144)杉森城城主下総守が参拝して社殿を建立、慶長5年(1600)今井兼久が、杉森八幡宮と称するようになった。
杵原川に面するこの地は特に急峻で裏手には堀切の痕跡が残り、矢竹がみられ、山城の名残が今も残る。(広島県東広島市高屋町杵原1865番)
神社の本殿は、三間流れ造り、細部意匠は装飾性に富む。時期は18世紀前・中期頃。宝暦7年(1757)の石灯籠、文政12年(1829)の石鳥居は後に移したものと思われる。
【梵字岩(ぼんじいわ)】
平賀氏の筆頭家老、名井光叶(みょういみつやす)の自刃の地といわれている。


この岩には、2種の梵字が刻まれている。

【梵字】解説晩によると。

右の種子は、胎蔵界大日如来の慈悲を、左の種子は金剛界大日如来の智徳を現す。 藤原光叶朝臣(ふじわらのやすみつあそん)とあるのは、名井家12代光叶の事であり、室町時代高屋保地頭平賀氏の分家で家老、入野の竜王山(別名中山)の城主でもあった。平賀氏が藤原の出であるから、藤原朝臣とした。 <入野篁山普陀洛院竹林寺7重層石塔と宝篋印塔 名井家名井光叶の墓
梵字とともに「光叶」の文字も読み取れます。

【胡麻古墳群】
高屋町高美が丘の近隣公園「胡麻公園」のなかに、胡麻第一、第二号古墳が整備されている。
第一号古墳は、直径約20mの円墳で、発掘調査はされていない。埋葬施設や埋葬品は明らかではない。時期は古墳時代中期(5世紀)と考えられています。
その北約10mのところに径約11mの第二号古墳があり。発掘された石棺や墓の周囲を掘った溝が再現されています。この溝は墓の存在をはっきりとさせ、あの世とこの世の境目をあらわしたものです。

この見て歩く研修会は、比較的暖かく、雨もなく良い気候の中、執り行われた。
高屋公民館をでて、戻る工程で、約7.5km、3時間程度の工程で、13:30から16:30で一人の脱落者もなく無事終えることができました。(筆者は足が引きつり、最後に到着と相成りました、翌々日のことも考え、近くの温泉に入って、クールダウンをしにいったことは、いうまでもなく)

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