2011年5月6日金曜日

第27回東広島の史跡・文化財を見て歩く会~幕末「神機隊」の地、志和を訪ねて(広島藩の隠れ城、八条原城他)が開催されました

第27回東広島の史跡・文化財を見て歩く会
~幕末「神機隊」の地、志和を訪ねて(広島藩の隠れ城、八条原城他)が開催されました。
平成23年4月29日、天候もよく、気温も程よく、ウォーキング日和でした。

コースとなる西志和の全景、中央に八条原城跡が見える
募集要項はこちら神機隊のことが詳しく載っています
朝9時半受付ではありましたが、スタート会場、東広島市立西志和小学校には1時間以上前から入場を待つ参加者がありました。
西志和小学校での開会式
参加者は、約600名、東広島市内外からの参加者で、県内の郷土史を研究されているグループからの参加者や留学生グループなど、年齢、国籍など様々でした。
今回メインテーマは、明治維新に活躍した「神機隊(しんきたい)」をテーマに、本陣や幕末に築かれた「八条原城跡(はちじょうばらじょうあと)」という幕末に築かれた隠れ城などを巡るコースです。

西志和小学校を出発し、関川沿いを北東方向へ歩きます。途中右手の山のふもとにこんな牛舎が建っています。地元産の牛乳を生産している。松島牧場さんです。
自社牧場生産の成分無調整牛乳
志和牛乳 (有)松島牧場
東広島市志和町志和西423
082-433-5400
松島さんの牛乳を飲まれた参加者の皆さんから美味しいねといった感想を沢山いただきました。
高速道路では、奥屋パーキングで販売されています。地元のスーパーなどにも置いてあります。
松島牧場を背に、北を向いて真っ直ぐ歩いていくと、正面に元大山酒造場(おおやましゅぞうじょう)があったところが、志和別荘 大和花(YAMATOHANA)というカフェとレストランがあります。
元の蔵の跡の広々とした敷地に建つレストランです。

 大和花は、明治2年『清酒大和花』醸造元、大山酒造場としてこの地に創業統制のため酒造をやむなく廃業せざるをえなくなり、広島市内に酒販業を開業、元の酒造りの地を、志和別荘YAMATOHANAとして、レストランを開業された。
志和別荘 大和花

YAMATOHANA内の庭
大和花
復元され、志和の大和花ギャラリーで販売されています

今回はコース途中であり、中を見せていただき、資料を拝見することができました。

次に、YAMATOHANA前を右方面に歩いて、宍戸家を訪れます。広島藩主世子(※1:せし)浅野長勲(あさのながこと)が、八条原城築城視察で訪れ宿泊しました。全体がほぼその当時のまま受け継がれています。※1:世子:世継ぎ
宍戸家
上写真には、門が左右2箇所ありますが、左が御成門(おなりもん)で、浅野長勲が宿泊したときのために使われたものです。幕末期に坪屋市左衛門は志和西村の組頭を勤める。慶応4年(1868)8月9,10日の両日、浅野長勲は八条原城を築城するため、重臣と共に志和西村を訪れた。その際志和西村組頭坪屋市左衛門宅に宿泊した。
図は、地元研究家 吉本氏によるもので、八条原城下「の右が宍戸家
現在の宍戸皓氏宅(坪屋市左衛門の子孫で宍戸と改名)は、御成門、不寝番のための門格子窓などの外観は当時のままの姿を留めている。また屋敷内には浅野長勲が宿泊された部屋、襖絵、使用された火鉢などが残っている。

また、八条原城の水車小屋で使用された巨大な石臼も保存されている。他家ともで3個。


門格子(かどごうし)
角格子は屋敷の隅2箇所に設けられ、見張り番が格子の向こうから、不審者を見張っていた、角の屋根が少し高くなっているのは、門番が立てるようにしたため。

いよいよ、第一の関所、志和神社。八条原城が築城中止になり、払い下げられたあと、この地に、「志和神社」が、志和西地区の4社を合祀し明治40年(1907)建立されています。

志和神社


説明板

説明板と八条原城跡石碑
鳥居をくぐって、参道の左に立てられている、石碑と看板です。参道の左側は、文武塾があり、講堂は、西条駅北側にある、浄土真宗南命山教善寺に移されています。現在は庫裡として使われています。当時と違うのは、敷地の関係で治まらず、くの字に改造して建てられたということです。
志和神社手水鉢、八条原城本丸別邸庭にあったという
この手水鉢は、元は八条原城本丸、藩主別邸の庭にあったものといわれております。

抜け穴
拝殿を左に行くと、道につきあたり左に曲がって直ぐのところに、道路際に陥没した処があります。
「八条原城の抜け穴跡」と考えられているものです。これは偶然見つかったものです。
現在は、蓋がされ、カラーコーンで囲まれています。

←左:本丸  8千石米蔵→
抜け穴のある道を真っ直ぐ山に向かっていくと立て札があり、右が8千石の米蔵跡、真っ直ぐいって左に曲がると本丸があります。8千石というのは、当時志和全域で8千石の米が生産されたことから、いざ有事には、志和が八条原城を中心に峠道を封鎖すると要塞化し籠城できると考えられていたようです。

8千石米蔵跡礎石
8千石の米蔵の礎石が山中に多数残っています。いかに大きい米蔵であったか想像できます。
この先には山水が流れる川もあり、水車のあとも残っています。


本丸の門を再現してみました

八条原城全図
下右が、文武塾、中心に8千石米蔵、上左が本丸。

本丸の藩主別邸平面図
本丸には、藩主別邸 60室 440畳。東側には政治堂がありました。明治元年、三つ掛山の麓に万一にそなえた隠れ城を広島藩が築城しました。面積は5万平米(約1万五千坪)。明治四年廃城。土地建物は売却された。 志和盆地を一大要塞地にするため、志和盆地入口の内村超・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川口の6ヶ所に柵門を設けて出入りを制限して、神機隊留守隊が守衛した。奥屋砥石川には鉄砲鋳造所、側重に弾薬製造所を造った。


・今でも裏側山中の石塁は長く連なり残っている。

・北東側に文武塾を設置した。

・明治4年廃藩置県で廃城となり売却、建物は隣村の小学校校舎、現在志和神社にある文武塾と講堂は西条の教善寺庫裏として移築された。



神機隊士に扮した説明員鉄砲も手作り
歩く会の説明員は、神機隊士姿で、説明しました。あとのアンケートでは好評であったようでした。
真ん中は八条原城に詳しい尾川建さんです。本丸担当で場内を詳しく説明をしていただきました。


門の右手を山中に向かうと、本丸の北側を周回する道があり、北面からの侵入者を防ぐ石塁が残っています。当時志和全域から集められたといわれています。大きな石は無く、小さな石で作られています。高さ約1m。この石塁を左手に見ながら、本丸の周辺を進むと、八条原城を最後にするところに、第2関所がありました。元 志和の里という温泉施設、現在双葉運輸の施設辺りと裏手一帯が城内。


4月17日
八条原城跡の草刈りの様子をNHKのニュースで放映されました。

続いて向かうのは、第3関所、東広島市園芸センター、この日は園芸祭りで東広島市内外から多くの方が農産物や苗などを求めて朝早くから来場されていました。

東広島市園芸センター
平成7年(1995)に開設、都市近郊農業の拠点としてトルコギキョウ・シャインマスカット・キュウリなどが栽培研究されています。将来の農業経営者を育成する新規就農育成研修が行われています。
ここで、昼休みをとりました。ここから南方面にある山々がよく見えます。
生城山
正面に見えるのが生城山(おおぎやま)で生城山城跡があります。天野氏の居城で、後に毛利元就の子どもを養子に向かえます。遷都伝説があり、一晩で山が盆地の真ん中に出現し、遷都ができなくなったと伝えられています。
園芸まつりのステージでは、地元女性ばかりで編成された、生城太鼓です。なかなか力の入った演奏です。
昼食休憩を終わり園芸センターを出発して、やがて右手に見えるのが、西明寺です。

西明寺(さいめいじ)
浄土真宗大谷派、元は真言宗で本尊は十一面観音、創建は不詳。七堂力山(高鉢山)の七合目あたりに建立と伝える。明治8年(1875)現在地へおろされ、翌年に浄土真宗大谷派に改宗。
さらに、道なりにあるいていくと、右手に貞岡神社が見えてくる。

貞岡神社 創祀年代は不詳。寛政元年(1789)に再建されたと伝えられる。祭神は応神天皇他七柱。
次に向かったのは、第4関所の二宮神社です。

二宮神社へ向かう参加者の列
二宮神社では、芝桜が参加者を迎えます。とても美しく整備された神社です。境内では巨樹があちらこちらに残り、そのパワーをもらおうと多くの参加者が手を当てていました。

由緒大同2年(807)征夷大将軍坂上田村麻呂が、詔をもって創祀。勅使奉幣も行われていたと伝える
祭神 大国主命 他13祭神 天文12年(1543)毛利隆元を大願主、吉川元春と小早川隆景を願主として、天野元政氏が寄進再興した。二宮の名前の由来は棟札に厳島神社二宮大明神説、又、大宮神社の二宮と称する等諸説あり不明。

拝殿右手には、東広島市の天然記念物のクスノキがあります。
東広島市天然記念物クスノキ

東広島市天然記念物クスノキ解説板

二宮神社境内案内板
拝殿左には、珍しい縁結びの紅葉がある。

二宮神社縁結びモミジ
二宮神社の巨樹
クスノキ 樹高24m、 胸幹廻り 291cm、根回り 700cm 昭和61年(1986)市天然記念物に指定されている。根元部分が一部地上に露出して四方に太い根を伸ばし、主幹は地上6.5mで2支枝に分かれる。比較的冷涼な地にあってこれほどまでに生育しているのは珍しい。

ケヤキ  樹高 24m、胸高幹周 312cm、根回り 636cm。神社の入口、石段南側の社叢の中にある。両側にスギやヒノキが植えられている。
又、境内の外れには樹高20m、胸高幹囲257㎝のクスノキ。その他に、イヌマキなどを見ることが出来る。紅葉も素晴らしい。(東広島市の巨樹より)


報専坊
二宮神社をでて、南に下ると、右手方向には、神機隊が陣営を置き訓練した報専坊(当時は山中にあり現在の地に移る)や大行寺原が見える。 浄土真宗本願寺派。号は帝釈山天楽院。本尊は阿弥陀如来。奈良時代に来我が建立。祐念が開基。


もとは南方の帝釈山にあって天台宗。聖武天皇を悩ませた妖星伝説がある。明治9年(1876)5月現在地におろされ、明治維新の時神機隊の陣営の一つ。東北出陣の時ここで隊勢を整えている。

大行寺原(奥屋)は、上条の高鉢山の東麓にあり、神機隊の練兵場として使われた。
和田山 練兵場があった
和田山(冠)。西蓮寺の向かいにある和田山、演習場として使用されたといわれる。
西蓮寺 神機隊本陣跡
神機隊 縁の最後の地で出迎える隊士?

木原秀三郎(木原適處・てきしょ )
 腰に差している長刀は勝海舟塾で親友となった坂本龍馬より贈られた土佐の名刀です。

適處は明治17年広島に英学校を設立しました、私塾広島女学会と明治20年、適處の広島英学校女子部が合併します。更に私立広島英和女学校と改称し、現在の、広島女学院となります。
浄土真宗本願寺派鳳生山西連寺(七条椛坂) ・本尊 阿弥陀如来。開基 室町時代長禄元年(1457)安芸  武田氏由来の僧 浄西が開基。・元は豊田郡造賀村にあり、当初は真言宗だったが、永禄2年(1559)浄土真宗に改宗。

・明治維新の頃、神機隊の本陣が置かれ、戊辰戦争、奥州遠征で戦死した隊士の墓が15基ある。

神機隊士の墓・神機隊、隊士の墓が15ある。下は19歳~上は27歳まで、殆どが20歳前後の若い隊士だった。・「芸州國回転軍第1起神機隊の墓」の石柱が、無縁となったものを地元有志が集め本陣のあった縁の西蓮寺に集めたもの。中央の大きなもの以外は神道の奥津城(おくつき)である。

八条原城一帯
西蓮寺 絵図

宍戸家絵図



歩く会MAP左

歩く会MAP右



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