2011年5月22日日曜日

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐東広島郷土史研究会レポート2

「雪舟と柿本人麻呂の事跡を訪ねて」春の臨地研修会‐レポート2
←レポート1:柿本人麻呂編へ戻る レポート3:雪舟庭園医光寺へ→
さて、益田での午前中の臨地研修も終わり、昼食の時間となる。
食事は島田家という、天皇皇后両陛下も宿泊されたというホテルです。
今日は地元石見神楽を舞っていただけるということで、楽しみな時間となりました。


割烹旅館 島田家

「いわみ益田は なつかしところ 水も枕の下をゆく 島田楼にて」と、
野口雨情は詠む、戦国山城七尾城趾の麓、清流益田川畔にあり、
雪舟の庭園で名高い萬福寺に、対峙する純日本式旅館です。

地元神楽団による恵比寿舞をご覧ください

恵比寿様、鯛釣りに興じ。餌を取られたり、針を引っ掛けたりと大変なことですが、最後は見事な大物の鯛を釣り上げるという内容です。益田地方ではお祝い事には必ず舞われるということで、最後には各テーブルを回って、飴を配ってくださいました。恵比寿様は釣り上げた物を自分のものでなく周囲に分け与えてくださるのだとか。
各テーブルを回り、飴を配る恵比寿様
 とても会場が盛り上がりました。
島田家で食事を済ませ、川の対岸にある、万福寺を歩いて目指します。途中の家々の2階の床辺りに水害で水が迫ったところに印が付けられていました。
さて、島田家から、100mくらいのところに、資料館があり、聞くと元郡役所の建物ということでした。

益田市立歴史民俗資料館
益田市立歴史民俗資料館
〒698-0005島根県益田市本町6番8号 TEL/FAX:0856-23-2635

庭先にある樹齢120年のニセアカシア

ニセアカシアも樹皮が剥がれ
多くの人がよじ登ったのでしょうか
酷い有様です。
周囲は舗装で固められ
根にとっては過酷な環境です。

ニセアカシアの解説


資料館向かいには徳川夢声生誕地がありました

徳川 夢声(とくがわ むせい、1894年4月13日-1971年8月1日)
本名:福原駿雄(ふくはら としお)

晩年の 徳川夢声
市の前身益田町生まれ。後、津和野町に転居、幼い頃上京し活弁士となった。 話芸の 神様と呼ばれた。菊地寛賞、紫綬褒章受章。

徳川夢声市民賞
 夢声の生地益田市が、2001年より、夢声にちなんで話芸に秀でた人を表彰する賞として授与している。
益田川に掛かる新橋を渡ると雪舟庭園の萬福寺

橋を渡りふと先ほどの川向こうに大きな建物があった
あれが、元郡役所の益田市立歴史民俗資料館ですね
後ろから見ると大きな屋根なので圧倒されますね


鎌倉時代に建てられた、重要文化財萬福寺本堂とあります
〒698-0004 島根県益田市東町25-33

重要文化財 萬福寺本堂
 萬福寺は南北時代の応安7年(1374)に益田市11代兼見によって創建されました。益田氏の菩薩時で鎌倉時代の様式を残す寄棟造の本堂と仏画の絹本著色ニ河白道図は重要文化財に指定されています。
萬福寺本堂についての解説を聞く
熱さと食後の満腹感でぼうっとしてます

萬福寺本堂の解説を聞く満腹の面々
重要文化財が2つあります

雪舟像

萬福寺の宗旨が書かれています

建物の中からみえる庭


万福寺庭園 国史跡及び名勝

1478年(文明10)頃に雪舟によって作庭されたと伝えられ、心字池の護岸と緩やかな築山の頂上から渦巻状に広がる大小の見事な石組群、やや離れて位置する三尊石、枯滝石組が一体となって須弥山世界を象徴している室町時代の庭園で寺院様式という手法で造られています。右の枯滝と築山の暗部と、左の三尊石の明部の対比が庭に奥行きを与えています。

絹本著色ニ河白道図
絹本着色、鎌倉時代の仏画。
鮮やかな筆のはこび、阿弥陀如来と釈迦牟尼佛の衣にほどこされた繊細な切り金細工きりがねざいくなど、当時一流の絵師の作と思われる。
「衆生は、ただ今の一念によって往生する。その時、娑婆世界と極楽世界の境界はなくなる。」という一遍上人いっぺんしょうにん の念仏思想を 絵画化したもので、時宗の要諦を一目に示す無類の優品です。

医光寺本堂内部
右側に、襖が外され 衝立のように立てられているが、益田の水害のときの水の跡がはっきりと判る。

かわいい虎、猫じゃないです。下の白いところが水害の跡
龍の絵 白くなっているのが水害の跡

本尊薬師如来

玉跡(木栓が跡)
幕末、 第2次長州征伐、益田口戦争 で、幕府軍福山、浜田両藩の陣地になった。その時の鉄砲の弾跡が柱に残っている。 二個の木栓が玉の跡、取り出して木栓が埋められている。上下にアールの付いた傷があるが、鉄の隠しが付けられていたそうだ。

さて次は、雪舟庭園のある医光寺へ参ります。










0 件のコメント: